暇と退屈の倫理学(國分功一郎)
「暇と退屈の倫理学」を読んだ。先日、私の役割の一つ、Editor-in-Chiefとして世界中から投稿されてくる論文を読むのが楽しくてしょうがないと書いた。2023年1月から今日までに受け取った論文は合計1393本。めちゃ細かい1の位まで書けるのは読むたびに記録しているから(まじで論文マニア)。ちなみにその中で日本からの論文は5本。で、アクセプトして出版に至った論文は222本。この一個前のブログを書いた時、「論文読むのがめっちゃ好き」なんて書いたけど、まじでーと思う人もいるだろうな、そもそもなんで自分は論文を読むのがそんなに楽しくてしょうがないんだろう、なんで論文が新規投稿されるたびに自然とにやけてくるんだろうと思ってたら、この本を読んで、ほっほー、私ったら<とりさらわれ>る瞬間を<待ち構えてい>るからなのか、だとすると超動物的本能で論文が好きなのも納得じゃんと感じた。
他にもちょいちょい感じたことをいくつか。
一点目。本の言葉を使うと、私としてはなんでそこまで「退屈の第三形式」が悪く書かれているんだろうという疑問。第三は、なんとなく退屈という状態で、そうなるとあまりにもみじめでじわーっと闇みたいにつらいから、とにかくなんかにしがみついてとらわれて、他の事いろいろ考えないですむ全集中の状態になる感じ。ちなみに第一は、そういう全集中したい人がせっかくのわくわく感を持っているのにそこにたどりつく前に足止めされてて、速くいきたい、やることない、暇だーみたいな感じ。本ではその第一と第三の状態が奴隷という比喩で書かれていて、その状態に「逃げ込む」よりも、第二の形式の退屈を楽しもうよ。第二は、友達とかと遊んでて普通に楽しいんだけど、家に帰ってからなんか退屈だったなみたいな。で、本にはいかに第一・第三が深刻かって説明がいっぱいあったし、第二で気持ちに余裕が持てる方が人間らしいのはわかるし経済を回した方がいいんだろうとかもわかるんだけど、第三のおかげで科学が無茶苦茶発展したりスポーツ選手があちこちで活躍してたり、この本もたぶん出版されたりしただろうし、いいとこもいっぱいあるのにと思ったから。でもきっとこの気持ちがあるから、本の冒頭で高度経済成長期の人たちの人生をとりあげた有名な日本の番組の主題歌を、定年退職された男性たちがコーラスで歌っているのを見て、見ていられない気持ちになったのかなと思った。「必死に」なんてきっと主観だろうし。でもCringeしちゃうくらい、第三のまま死ぬ人がつらい、第二のまま死ぬ人の方が人間らしいと哲学者は考えるのかな、私なら第一で死にたいかななんて思った。
二点目。「暇すぎる人かつ退屈している人は苦しみを求める」という内容があった。別に苦しみじゃなくってもなんでもよさそうなものだけれど、そこはなんでもいいわけじゃない、何か負の要素がないといけないと。この本には、たとえばお金をかけずにルーレットをやっても気晴らしにならないじゃん。やっぱりお金をかけてそのお金がなくなっちゃうかもみたいなヒリヒリした緊張感とか苦しみが必要。獲物を楽々とつかまえることのできる場所で狩りをしても暇つぶしにならない、そこは獲物がなかなかみつからない、このまま手ぶらで帰ることになったらどうしようみたいな苦しみが必要という例がある。で、ほいじゃあ、なんで退屈している人は苦しみが必要なのかについては、本では、苦しむことで次の行動に移れたり自分の使命みたいなものを正当化できるからとあった。たぶんこのあたりが私的には一番ささった。私がPTGの研究をしはじめた時、自然災害で多くを失った人や家族が戦争の犠牲になった人の報告するPTGが、命がけの挑戦をする人(無理目な登山とか宇宙飛行士とか)が報告するPTGと似ているという研究があった。そのたびに、自ら進んで過酷な挑戦に行く人と、災害や災難がふりかかってきた人ではぜんっぜん違うと感情レベルで反応しちゃうんだけど、どうしても研究結果のある部分は似ていて、自分の中でどう折り合いをつけたらいいのかなと思っていた(『コロナ禍と心の成長』書いた時にその部分しっかり議論できなかったことが心残りだったから)。でこの本を読んで、人は退屈したり、退屈から逃れてなんかにはまったり、でまた退屈したり、みたいにその間を行き来するんだなと(本の言い方を使うと、「第二の退屈」を感じたり、そこから逃れて「第一・第三の退屈」を感じたり、でまた「第二の退屈」を感じたりみたいな)。だとすると、感情面とか倫理面とか道徳とかいろいろな理由で、自ら飛び込んでいく人と被害に合った人をいっしょくたにするなんてあり得ないと思っちゃうのはしょうがないかもしれないけれど、人間の反応としては、予測不可能な場に自らを置いたか置かれたかの違いはあったとしても、そこからの心の動きに共通面があるのは自然かもと思った。自らすすんで危機的場面に自分を差し出した人が助けを求めると自己責任と責め立て、否応なしに置かれた人に対しては助けが不十分だ、社会全体でなんとかしましょうと腕まくりするけれど、それは私たちのレンズ次第だから、私も心理学者ならそこはびびらずにもっとちゃんと研究したいと思った。
三点目。頭からP.479まで気持ちよーく読んできて、最後の最後のところ、増補新版によせてのSalienceの話でかみあわなくなった。ひとつには、Salience, Saliencyのとらえかた。学問独自の意味があるのかもしれないけれど、私のイメージだと、経験した一つ一つのことがsalient(自分にとって重要なもの、意識にのぼるようなもの)になるかどうか、むしろsalientにならないことの方が多いし、かつsalientにするかどうかこそがその人を形作るという理解だった。意味の付与。salientという英語を使わずに書くのなら、意識から離れてくれない、自分の人生を語る上ではずせないものになったという感覚。だからこの本では、この世界はsaliencyだらけで原則的にはこの世に存在するすべてはsaliencyで、人はそれを避ける方向に向かって生きているみたいに論が展開されていくところが私のこれまでの知識とずれた。salienceを新奇刺激みたいな感じで使ってるのかなと思ったけれど、本文中に「すると、確かに、周囲にはサリエンシーはないものの、心の中に沈殿していた痛む記憶がサリエンシーとして内側から人を苦しめることになる。これこそが退屈の正体ではないだろうか」とあり、ここはちゃんとわかりたかった。もうちょっとがんばってもらいたかった。ふたつには、ここにきてやっとトラウマに言及されてて、本の途中で、フロイトが退屈とか暇について議論していないのが不思議と書いてあった時、私もそう思うと心の中で盛り上がったし、存在脅威管理理論(Terror Management Theory – Mortality Salience)についての 記述もあったりして、ぜひぜひトラウマや死と、「暇と退屈」の関係についてもうちょい聞きたいと思っていたので、やっと聞けると思ったら、話が運命の方に流れて、ここは拍子抜けだった。
最後に、この本読んで、他分野の人と共同研究したり、他分野の人の研究知見を理解することはちょっと私にとって第二形式の贅沢な時間だなとうれしく感じた。この本の最後にも、たとえば生育状況と退屈や暇への耐性には関連があることが理論的な観点から「~だろう」みたいに書いてあったけれど、これは心理学の分野では逆境的小児期体験と多動に関連のあることが実証的研究で報告されているからすでに裏付けありだから、れいの気持ちいい退屈感、科学者が一生懸命研究するのも他の人たちに見てみてーこんなこと発見しちゃったと自慢するためとか書いてあるのを見て、これまた同様、私的には第二形式。でもこうして自分で考えをまとめながら、次の研究デザインに暇と退屈を変数に組み込むとしたらどういうふうになるんだっけと意識が飛び、そういえば退屈感でいい論文があったかもと思っているあたりからして結局また論文を読むという、第三に突撃。次カラオケ行ったら地上の星を元気よく歌おう!
