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PTG・レジリエンス第3回研究会終了

6月 21, 2013

PTG・レジリエンス第3回研究会が終わった.話題提供を引き受けてくださった先生方の話に大変引き込まれ,私は一番前の席でノートをとりまくった!もっと司会の役割を果たしたほうがよかったかもしれないし,来てくださった方々がもっとディスカッションできるような場にするためのファシリテーターとしての役割を果たしたほうがよかったかもしれないけれど,私は自分たちが今進めている研究のためのヒントが話題提供者の先生のところからどんどん出てくるので,はっきりいってそれどころではなかった.自分のノートから一番記憶に残った点だけまとめておく.

  • 近藤卓先生の話からは,寅さんあるいはゆらゆらゆれるおきあがりこぼしに見るようなPTGとロッキーの映画に見るようなPTGの違いあるいはその関連性について考えさせられ,かつ,先生が理論化された二種類の自尊感情とPTGの関係についてどんな仮説が立てられるのかと脳が刺激された.
  • 平井啓先生の話からは,現実の問題解決の場ではなりふり構っていられないというリアリティーと縦断介入研究のデータがもつメッセージに圧倒された.また,人間というのは結局日々成長しているのだから,PTGはその一部を取り出して名づけているという指摘もうなずけるものであった.
  • 小塩真司先生の話からは,尺度の妥当性の問題はいうまでもなく,レジリエンスが個人内要因であるという点が強烈だった.PTGは個人内要因ではないということを言えるのかと自問した.同時に,人間だけでなく,社会や自然システム,国全体にみられるレジリエンスの話にも言及されるのを聞きつつ,PTGにそのアイデアをどう応用できるかと考えた.
  • 開浩一先生の話からは,PTGを臨床のゴールとしないことの意味を考えさせられ,それは研究でいうと,PTGI得点を回帰変数の従属変数に安易にしないというメッセージでもあると考えた.また,サバイバーから学ぶ姿勢が重要であるという点についても,それを研究にのせていくためにどんなデザインが考えられるのかなどと考え始めた.
  • 土屋雅子先生の話からは,社会的な比較(例えば,他のもっとつらい思いをされている人と自分を比べることなど)の効果が日本人の場合とより個人主義のアメリカ人の場合などでは変わってくることについて考えるきっかけをもらった.また,「与えられた」ものという話も心に残っており,これは哲学や精神性的なものと考えて,研究にのせられるのかなと興味をもった.
  • 清水研先生の話からは,現在のPTGIではとらえきれていないPTGがあるということを再確認できたし,その具体的な内容がわかりやすく腑に落ちた.話の最後のあたりで,「それでもはるかに悲しみの方が強いんだなという実感がある」と言われたのはフロアのすべての人に届いたと思う.
  • 黒田宙見さんの話からは,ロールモデルの有無がPTGに及ぼす影響を再検討できた.ちょうど土屋先生の話のなかで,Upward Comparison & Downward Comparisonの話が出ていたので,それとロールモデルがどのような補完的関係にあるか仮説を立てられないかと考え始めた.
  • 野村亜由美先生の話からは,日本人を対象とした場合の枠組みにとらわれていては,スリランカにおける認知症をきちんと理解できないことから,PTGも,その枠組みにとらわれていては,トラウマを含む人生の危機に直面した人のその後の人生や心の持ちようをきちんと理解できない可能性があることを考えることになった.

最後に,私が話したのは,PTGIという尺度がもつ限界あるいは弱点とその克服についての自分の考えであったけれど,それをすべてまとめると,PTGIにはcopyrightがあるわけではないので,研究の目的や対象に応じて,尺度の弱点や限界を克服できるようにそれぞれが自由に工夫して使うことが大事であり,実際そのような研究が既に多数発表されているということになると思う.ちなみに,廣岡佳代さんと千葉理恵さんによる話題提供は今回,急な御事情によりかなわなかったのでまたぜひ別の機会を楽しみにしたい.

また,私がこの会を通じて感じたことは,PTGを研究すること,あるいはPTGそのものが,実際に今苦しんでいるサバイバーの方々にどんな意味があるのか,あるいはどう役立てることができるのかという問いに真っ向から立ち向かっている臨床家,医療関係者,教育関係者,研究者などがたくさんいることだった.それはすごいエネルギーだった.

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