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Tedeschi, Calhoun, & Cann (2007)

8月 24, 2014

Tedeschi, R. G., Calhoun, L. G., & Cann. A. (2007). Evaluating resource gain: Understanding and misunderstanding posttraumatic growth. Applied Psychology: An International Review, 56, 396-406. doi: 10.1111/j.1464-0597.2007.00299.x

この秋,11月に神戸で開かれる日本教育心理学会において,「大災害に対して心理学はこれまで何をしてきたのか?これから何をすべきなのか?」というシンポジウムが開かれる.私も演者の一人としてそこに参加し,PTGの観点から話をする予定になっている.日本教育心理学会への参加は渡米前,まだ名古屋大学の院生だった頃の2003年が最後なので,11年ぶりとなる.それで,自分はそこでなにを一番話したいか…ということを時々考える.そのヒントになるかなと思ったので,Richらが書いた2007年の論文を読み返してみた.この論文は,PTGによくある誤解を解くため,Hobfollらの論文にコメントする形式で書かれている.これを読むと,Tedeschi&Calhounの立ち位置はよくわかる.この論文はデータを用いたものではなく,「コメント」の形式を取っているので,主要な言い分を以下にまとめる.

  • PTGは自分たちが新しく発見した概念ではない.フランクル,キャプラン,マズローをはじめとして,多くの哲学者,心理学者がこのような心の動きについて長きにわたり注目してきた.したがって,PTGを,ポジティブ心理学の波に乗っかった形で最近になって注目されてきた一過性の流行みたいなものだと位置づけて批判するのは必ずしも的を得ていない.
  • あらゆるストレスや最悪の出来事から自動的にPTGが起きるとは言っていない.PTGとは,心理的な準備が十分でない場合においてある出来事が起きた時,それによって価値観や信念が揺さぶられることから,その揺さぶられた信念を再構築してゆくプロセスの中で体験されるものである.私たちが使っているキーワード,「中核的信念の揺さぶり」「侵入的思考」「意図的熟考」「精神的なもがき」などは全てこのプロセスを説明するためのものである.
  • だからと言って,PTGはすべて認知の働きによるものでもない.PTG理論モデルで示しているように,認知プロセスは重要ではあるけれど,それ以外に,個々人が所属する文化的な枠組みの影響や本人のパーソナリティなど様々な構成要因がある.
  • PTGは行動を伴ってこそはじめて真の成長であるという考え方には賛成しかねる.PTGは人間としての内的な成長なので,それが行動という形を伴って顕在化することは珍しくない.だからと言って,行動が伴っていない成長の実感は単なる「感覚」に過ぎず真の成長ではないという考え方はあまりにも極端である.PTGの領域によって外に行動として出やすい内容とそうでない内容があるし,また行動という形で外に出す出し方にもまた個人差がある.
  • PTGは,防衛的な反応であったり,ネガティブなものに対する否認であったり,自分をよく見せたいというエゴの現われであったりと,結局のところ「幻想」に過ぎないのではないかという批判がよくみられる.しかし,私たちの研究からはむしろ人はPTGを実際より低く報告することのほうが多いし,インタビューでは,出来事の短期的・長期的影響の正負,両面について認識した上でPTGを語るケースのほうが多い.
  • PTGとPTSD症状は相反しない.両者は共存する.成長したという実感があるからと言って痛みが消えるわけではない.

というわけで,この論文は短いながら彼らの主張したいことがよくまとまっていると思う.

それにしても彼らがこういう論文を書きたくなるくらい,PTGに関する批判が多いというのは興味深い.

被災者,被害者を始めとして,つらい出来事を経験した多くの人が,それをきっかけにもし人格的な成長を遂げていたとしても,それはあえて言うようなことではないという前提が根強くあるんだろうと思う.そして,研究ではそれを無理に自己報告してもらうようにもっていく部分が否めないから,その結果,あやしいという批判が出たり,その背後に何か別の意図があるのではないかと勘ぐる面が出てくるのかもしれない.というのも,事例研究などをみていると,PTGと名前がつけられていないだけで,PTGのようなプロセスは珍しくないように思うからだ.

さらに今のPTG理論では,ある出来事をきっかけとして「自分」が信じてきたことがどう揺さぶられ,「自分」はそれに対してどう考え,「自分」はその結果どう変わったのかと「自分」に着目する割合が高いので,それもまた,PTGを受け付けない理由になっているかもしれない.最近,養老孟司著「自分」の壁(新潮社)という本を読んだ.そこでは自分というものが周りから独立して存在するという前提はアメリカ的な考えであり,ルネサンス以降の「個人」中心の考え方に過ぎない.日本文化で共生,さまざまなものとのつながりを重要視してきたことこそが,自然なことではなかろうか,と書いてあった.PTGにそれを応用するならば,個の成長は周囲及び環境の成長なくしてありえないし,「自分の成長とは」ということを考えるだけ愚か…という面が出てくるかもしれない.

ちなみにこの本の中に「経済的な成長の限界」が紹介されていた.経済的な成長には限界がある.身体の成長にも限界がある.認知機能の成長にも限界がある.とすると,精神的な成長にだけ限界がないと仮定するのはおごりではないか.人間としての成長,人格的な成長にも限界があるということをもし認めたらどういうことになるんだろう?

長くなってきたので今日のところは以上.

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