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Westphal & Bonanno (2007)

10月 11, 2014

Westphal, M., Bonanno, G. A. (2007). Posttraumatic growth and resilience to trauma: Different sides of the same coin or different coins? Applied Psychology: An International Review, 56, 417-427. doi: 10.1111/j.1464-0597.2007.00298.x

PTG理論モデルでは,起きた出来事によって自分がこれまでに信じてきたことや価値観が「認知的に」どう揺さぶられ,「認知面で」そのことをどのように考え,打ち砕かれた信念をどのように「認知的に」再構築するかという一連の流れが,一つの主な道筋として示されている.これがPTG理論の弱点でもある.つまり,認知面に重点が置かれすぎていて,結局はとらえ方次第ということなのかという疑問が出てくるからである.これに異議を唱えているのが,Hobfollらである.彼らは行動を伴った上での成長の実感なら本物だと認めるけれど,行動が伴っておらず,認知面で成長を実感しているだけならばそれは思い込みに過ぎないと主張している.その議論に対してさらに反対意見を唱えているのがこの論文である.これはレビュー論文なので,著者らの主張を箇条書きにする.

  • PTG研究は確かに認知面に重点が置かれすぎてきた傾向があるので,Hobfollらが,PTGについて「行動を伴ったPTG」と「行動を伴わないPTG」に分けた点は評価できる.
  • さらに,PTGのプラスの側面だけでなく,テロなどの状況ではむしろPTGを実感している人において,自国民至上主義傾向(他の文化を排斥する傾向)が強くなってしまったり,暴力を容認してしまったりとマイナスの影響もあることを示した点も評価できる.
  • しかしながら,「行動を伴わないPTG」はすべて思い込みに過ぎず,適応的ではないとの結論を出した彼らの主張には賛成しかねる.
  • このような結論が出されてしまった理由として,Hobfollらが,PTGとレジリエンスを分けてとらえていないという問題点があるのではないだろうか.我々は両者は別者であり,レジリエンスが高い人はPTGを経験しにくいと考えている.
  • 私たちのレジリエンスの研究からは,意外なほど多くの人が,レジリエンスが高い状態にあり,大変な出来事を経験したとしても,それなりに健康機能を保ちつつ,生活していることがわかっている(つまり,PTG理論が示すような,自分の信じてきたことが完全に崩れ落ち,人間関係も信じてきたこともすべて崩れ去り,どん底から再構築しなければいけないというような状況に陥る人は,そこまで多くない).
  • そして,出来事の影響をもろに受けて,PTG理論が示すような道筋に合致する少数の人とは異なり,多くの人は,そんなに認知面での強いもがきも必要としていなければ,意味づけという心の動きも経験しないことがわかっている.こういったレジリエントな人がたどる軌跡は,典型的な落ち込みを必要とするPTGの軌跡とは随分異なるだろう.
  • レジリエントな人がたどる軌跡には,自分に都合のいいように解釈する側面(自己奉仕バイアス・自己強化バイアス)があるのは事実である.しかし,それが健康につながっているのなら,「バイアス,つまり認知のゆがみなのだから不適応的だ」と非難するのは間違っているのではなかろうか.
  • 確かに,レジリエンスが高くて,こういったバイアスの傾向が高い人は,自己愛が強かったりして,他の人からあまりよく思われていないという負の側面があるのは確かだけれど,おもしろいことに,彼らは自分がそういう負の評価を受けていることにも(おめでたいくらい)気づいておらず,案外良好な関係を,人とも自分の身体とも築けている面がある.
  • 結局のところ,行動を伴わないPTGは思い込みに過ぎないと批判しているけれど,その批判は的を得ていないと言わざるを得ない,というのも思い込みにはこのように,健康にとってプラスの面があるのだから.そして,状況によっては行動として表に出ない人間としての内面的な成長もあるはずだから,行動に重きを起きすぎるのはやはり問題だと思う.

レジリエンス研究の第一人者Bonanno(ボナノ)によるPTG・レジリエンス研究へのコメントである.何か大変なことが起きても,完全につぶれてしまわず,比較的短期間で回復することができる人をレジリエントな人と言う.何か大変なことが起き,完全につぶれてしまったからこそ,そこからさまざまなもがきを経験した結果,えてして,それまでにはなかったような新たな側面を発見したり,自分に自信がついてきたりしたら,このプロセスをもって「成長している」,つまりPTGと言う.すでに「レジリエント」な人は「PTG」を経験しにくい.でも「PTG」を経験したからこそ「よりレジリエントな」自分になることはありえる.

起きてはいけないような出来事が起きてしまい,そこから時間がどんどんたつ中で,「レジリエントな」人材を育成することを目的とすることは,大変な出来事が将来また起きたとしても,PTSDなど心身につらい症状が出てくることを防ぐことにつながり,大変納得いく方針だと思う.そのために,いい人間関係を築いておくことが大切であったり,ユーモアのセンスが大事であったり,より柔軟なコーピングを身につけておくというのも納得がいく.けれども,「レジリエントな」人材を育成することが,「何か大変なことがあってもへこたれない人,へこたれてもすぐに回復できる人」を育成することだと考えることで,それが行き過ぎてしまって,「何か大変なことがあっても傷つくことができなく」なってしまったり,「傷ついているかもしれない自分を認めることができなく」なるような人材の育成につながるならば,直感的には本末転倒だと思う.なんとなく可愛げがないというか,人間らしくないという気がしてしまう.けれど,この論文ではそれこそが余計なお世話であり,そういう人は,そういう人でうまく生きていくのだから,そのまま尊重すれば良しというメッセージが送られている感じがした.弱者にやさしい研究,あるいは弱者と強者の二分化に歯止めをかけるような研究を志向するのはむずかしい.

以上.

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